彼は、逃げていた。 手負いの身体で、彼は森の中を逃げていた。 少し背の高い草むらを抜けた彼のすぐ後から飛び出してきた追跡者は、数匹のグラエナだった。 十数分前に別の野性ポケモンから逃げている際に、誤ってグラエナ達の縄張りを侵してしまったのだ。 追いかけてくるグラエナ達は一様に怯えた目の色で、それでも追跡を止めようとはしない。 本来の体調であれば、彼は逃げおおせたはずだった。そもそも十数分もグラエナ達に追い回されたりしていない。 しかし、逃走に逃走を重ねた今の体調は万全とは程遠く。 「……ッ」 ふらり、と彼がよろめいたことでぎりぎりの均衡が崩れる。 体勢を立て直そうとする彼にできた本の一瞬の隙をグラエナ達が見逃すはずがなかった。 「!?」 しまった、と思ったときには遅かった。無防備な背中にまともに飛び掛られ、彼は大地へと押し倒される。 爪が皮膚を破り、背中へと食い込んだ。 耳元で感じる荒い息遣いと、大地を通して伝わってくる、他のグラエナ達の接近。彼は一瞬観念したように目を閉じ、その言葉を呟いた。 「……《ダークホール》 !!」 声を聞いたグラエナが慌てて彼の背中から飛び退ろうとするが、遅い。 黒い球体に包み込まれたグラエナは、その球体が消えた時には眠り込んでいた。 他のグラエナ達も次々と黒い球体に飲み込まれ、同様に眠ってしまう。 しばしの間を置いて、彼は自分の上で眠りこけるグラエナの下からどうにか這いずり出た。ふらつく足取りながらもどうにか立ち上がり、 よろめきながら再び逃亡を開始する。 ――ダークライ。 それが、彼に与えられた種族としての名前だった。 理由は分からない。ただ突然、彼がひっそりと暮らしていた新月島へニンゲンが大挙して押し寄せてきたのだ。 それは彼にとっては不意討ちにも等しい出来事で、身を隠すという行動すら起こせず、あっさりとニンゲンに見つかった。 彼は元々、新月と闇を司る神格を持った神であった。けれどもその神格は古の時代に忘れ去られ、 彼は悪夢のポケモンとして古文書の中でも特に古いものにのみわずかに名を記される程度となった。 彼を見つけたニンゲン達は、見たこともないポケモンを捕獲しようとした。彼はそれを自分に加えられる危害と判断してそのニンゲンと、 それに従うポケモン達を眠らせ、逃げた。 恐らくそれがいけなかったのだろう。 例えば、グラードンやカイオーガのように莫大な力でもって人間を実力排除すれば。或いは、ミュウやルギア、 ホウオウなどのように記憶を奪い別の場所へ放り出したり、神としての神格を忘れられることなく奉られていれば、事態は変わっていたかもしれない。 しかし彼は実力排除、というよりは戦闘をあまり好まず、記憶を奪うような特殊能力もなく、神格も忘れ去られて。 最初は新月島内部をひたすら逃げ回っていたものの、執拗過ぎるニンゲン達によって、とうとう新月島を出ざるをえなくなった。 その彼を待っていたのは、今まで以上のニンゲン達と、彼の特性、《ナイトメア》を恐れる野生のポケモンたちだった。 そうしてあてもなく逃げ回り続けた彼は、いつしか、南を目指すようになった。それは目指すというより引き寄せられるに近かったが、 とにかく彼は南へ南へと逃げるようになった。 その結果が現在だった。 森を抜けた彼は、軽く溜め息をついた。自分がどこへ向かっているのは分からなかったが、とにかく目的地が近いような気はしていた。 実際のところ、新月島を出てからろくに休息をとることができず、心身ともに疲弊の度合いは不完全と言うよりは限界だった。 加えて、森を抜けたことに少しばかり安堵して気を抜いていた。 だから、彼は自分でも気づかないうちに周囲への警戒が鈍っていた。 その気配に気づいて彼が振り返った時には、襲撃者は行動を開始していた。 (何故ハガネールが!?) とっさにかわそうとするが、重量級のポケモンにしては素早い動きを捉えることができず、《噛み砕く》が命中した。 彼は耳元で自分の左肩の骨が砕ける音を聞いた。 そのまま大地へ叩きつけられるようにして投げ出され、背中をしたたかにぶつけた。 「がっ!」 一瞬呼吸が完全に止まる。呼吸ができるようになったとき、背中に痛みが走った。その後、砕かれた左肩が今更のように痛み出す。 左腕の感覚は、ない。 痛みに耐え、よろめきながらそれでも立ち上がろうとする彼を容赦なく《アイアンテール》が襲った。 背中に一撃。口からは声の代わりにせり上がってきた血液が溢れる。背中の鈍痛は激痛に変わり、意識が遠のく。 背骨が折れただろうな、とぼんやり考えれば、動かない身体が浮き上がった。 ハガネールの鋼鉄の尾によって跳ね上げられたのだと分かったのは、二撃目の《アイアンテール》が自分の身体に叩きつけられ、 弾き飛ばされた自分の身体が更に岩壁に叩きつけられてからだった。 身体はもう自分の意志では動かない――動かせない。意識は朦朧として拡散し、思考はまとまらない。 そんな中で辛うじて考えることができたのは、自分の死、だった。 別に死んでもいいか、と途切れ途切れの思考は結論を出した。ここまで邪険に扱われるのなら、 いっそ死んで消えた方がまだましなのかもしれない。 霞がかかり始めた視界の中で、怯えた目の色のハガネールがその鋼鉄の尾を振り上げた――。 「――《アクアジェット》!!」 横合いから、強烈な水がハガネールにかけられた。弱点の攻撃を受け、ハガネールがひるむ。 彼とハガネールの間に割り込み、立ちはだかってハガネールと相対するのは、ニンゲンの子供と――エンペルト。 ハガネールは攻撃にひるみはしたものの、いまだ戦意は失っていない。 突如割って入った闖入者を睨みつけると、ハガネールは《アイアンテール》を繰り出す。 その一撃は、エンペルトの右腕にあっさりと受け止められた。 ハガネールがぎょっとした表情になる。 『悪いが……これでも鋼タイプ持ちなんでな。お前の攻撃は効かない』 エンペルトはそう言ってにやりと笑う。ハガネールはもう一度攻撃しようと尾を振り上げる。が。 「ザン、《ハイドロカノン》!」 弱点の属性の、強烈な攻撃を受け、ハガネールが凄まじい地響きと共に倒れる。 子供はそのハガネールにモンスターボールを投げ、ハガネールは捕獲された。 「……、……い、おい、聞こえるか、ダークライ」 随分と懐かしい声に名を呼ばれ、彼はほとんど消えかかっていた意識を無理矢理覚醒させ、重いまぶたをあげた。 目の前には、ニンゲンがいた。深い青色と、一房だけ水色の長髪のニンゲン。 そう判じた意識を、本能が否定する。違う、と。目の前にいるのは、仮に人間の姿をとった、古い知り合い。この気配は、確か――。 「……ディア、ル、ガ、……?」 酷く掠れた上に囁くような声音だったが、相手はそれを聞き分けたらしく、安堵したような表情になり、頷いた。 そこまでが限界だった。彼の視界は間を置かずに暗転し、意識が一気に遠のく。 レオナ、と誰かを呼ぶディアルガの声を聞きながら、彼の意識は消えた。 ダークライ、姫抱っこ。 |